八代流について

流 歴

花首を摘み取って、皿様の宝器に水を入れて浮かべなさい。そして、四つ足の花台の上に置き、床の間に飾りなさい。そうすることで、風水の難を厭いなさい。

これが、八代流の始祖である、早野長楽斎が、高祖である足利義政公から教えていただいた、初めてのいけばなでした。

室町幕府の八代目の将軍であった足利義政公の教えが、その後、家臣であった早野家に、290年という歳月にわたり、脈々と受け継がれていき、江戸時代に入り、いけばなの人気が爆発的に広がりを見せた頃、早野兵蔵紀泰光が、名古屋の地で八代流を興し、初代家元として、橘湖斎白龍を名乗りを上げました。


二世家元に子供がいなかったことで、世襲が途絶え、腕のよかった榊原古鶴が、三世家元、橘湖斎古鶴を名乗ることになりました。その後、明治維新とともに、武士が多かった八代流は衰退の一途を辿りましたが、明治時代後期には、いけばな文化が復興していく中で、大澤樂高が流内で選挙投票が行われ、九世家元、相承軒樂高(大澤樂高)となりました。

大澤樂高は、17歳にしていけばなを習い始め、20歳で会頭に進みました。とても熱心に学び、流に貢献する姿に、周囲から九世の職につくよう懇願されていましたが、頑なに辞していたため、選挙という形で任につくことになりました。その後は、寝食を忘れて復興に努め、四世から八世まで中絶してしまっていた銅束花や立華に取り組み、万年青の活け方、行李柳の筋通しの考案など、様々なものに取り組み、とても好評を得ていました。

時代は昭和に移り、住環境が変わりを見せる中、十三世家元となった相承軒万香(大澤万香)は、自由花の拡充にも尽力し、八代流の盛花を確立させていきます。その後、十四世家元を承継した梅寿庵輝猪(稲垣輝猪)は、もっと身近にいけばなを感じてもらうために、と、ポケットフラワー(心花)を考案し、大切なものをそっとポケットからり出して使う時のような、想いの詰まったいけばなを、小さなスペースにも添えていただこうと、提言しています。

こうして、八代流は創流250周年を迎えることとなりました。

 

 

基本の花型

八代流では以下のように花型があります。