当流は「はちだいりゅう」と読みますが、「八代草」と書いて「やつしろそう」と呼ばれている花があります。
熊本県八代市に自生していることから、この名前で呼ばれていますが、近年の環境の悪化から、環境省レッドデータブックで 絶滅危惧B類に指定されているようです。

花言葉は「従順な人」「誠実」「感謝」。心に咲かせてみたい花ですね。
第十四世家元 稲垣輝猪     

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いけばなについて


《いけばなの歴史》

いけばな(勿論我が国本来のいけばな)は、省略の芸術であるといわれています。
その所以は、山野の草木を屋内に取り入れ、大きな自然を限られた空間に季節ごとに表現するところにあるのです。 故に、その技術面においても一枝一葉の出方、生え方には存分に気を配らねばなりません。
さて、ここで日本のいけばなの出生について触れてみましょう。
古代我が国では古木、巨木は神の依代(よりしろ)として大切に祀られてきました。神の存在なくして祭りは存在しないのです。 部族の安泰、生活の充実を願ってその依代に供物を捧げ、自然への畏敬と感謝を込めて神を祀りました。
神に植物(松・榊など)を立て供える心が花の美を探究するいけばなへと発展したのは、ごく自然のことでしょう。 我が国は四季に恵まれ、自然の変化に富んでいます。満開の花を愛で、紅葉に心を移し、散り行く花を惜しむ日本人ならではの 美意識が、花との深い関わりを持ち、生活に密着したいけばなを創造したのです。
日本のいけばなは、まず、そこに花があるからのみでなく、四季を通じた花との触れ合いによって人々の情感をかき立て、 器に挿して花を愛でる心が華道への発展に繋がったのでしょう。
いけばなは、供花、就中、仏花の延長線上に育ったものであり、瓶に花を挿して鑑賞することは、古く平安時代(900年ごろ)から行われていたとされています。
室町時代には、時の将軍足利義満(1400年ごろ)は花を愛好し、金閣寺で花合わせを催し、宮中でも行われていました。
八代将軍足利義政(銀閣寺)にいたっては、風流文化に徹し、華道はますます隆盛を極め、華道形態に確立期ともいわれる東山文化を築きました。
後に、生花(しょうか・せいか)と呼ばれるようになった花型がはじまったのも、この時期です。
江戸時代に入って、後水尾天皇のお声掛かりで朝廷での立華の御花会が開かれましたが、階級の別なく技を競ったことで、上下こぞって華道への感心が深まったといわれています。
時代は移り、泰平の世の元禄時代(1688年〜1703年)には、池坊二十六世専順依頼研究されてきた抛入花がもてはやされました。 立華よりも素朴な暖かみのある抛入花が、当時の大衆生活にぴったりだったのでしょう。江戸時代中期(1750年)ごろには全国に普及し、華道諸流が勃興したのもこの時期でした。 明治に入り、一時衰微しましたが、末期には外国文化の流入とともに、洋風が取り入れられて花材にも洋花を使うようになりました。 以後大正・昭和にかけて、華道は生活文化として確固たる地位を築き、新流派も次々とあらわれ、文人瓶花・盛花等の新しい形式も生まれ、諸流は互いに凌ぎを削りました。 戦中・戦後暫く拡散していたものの、やがて復興の途をたどり昭和30年ごろから隆盛に転じました。
復興につれて、大流は挙って有名デパート等でデモンストレーション的華展を繰り広げ、諸流との交流も盛んになり、合同華展、他流派グループ展なども各所で行われる時代になってきました。 それにともない、流派を超えたいけばなの芸術性・創造性を追及しようとする動きも活発になってきています。
元来、男子の嗜み・子女の教養として広く支えられてきたいけばなも、時代は変わり近代外来文化の攻勢と若い世代の趣味嗜好の多様化と共に、今や国際社会をも踏まえたいけばな界の新陳代謝と時宜を得た対応を迫られてきています。

現在では、いけばな協会に登録されているだけでも約400の流派が存在しています。